良寛さま ゆかり
東与板 良寛詩歌碑公園
04-2 徳充院書簡碑「太郎兵衛様宛」
新設:2017-05-01
更新:2023-03-19
撮影:2011-06-30
04-2E 徳充院書簡碑「太郎兵衛様宛」と良寛書翰「中山より」


碑「良寛書翰と徳充院書翰」
写真1

本碑案内板(拡大)
写真2

案 内
写真1で上下2つある書簡碑のうち 下段の徳充院書簡碑「太郎兵衛様宛」を紹介します

案内板
良寛書翰と徳充院書翰 

*中山より
三輪 徳充院老 良寛
御病気如何
御坐候や随分
心身を整ふる
よふにあそは
さるへく候
油一とくり
たまハる可候
 十月八日

*太郎兵衛様 徳充院
御細書拝見いたし候
けふはむしあつさにて
なをたへかたく
御ふたり様いよいよ
御たっしゃに御座なされ候
由蒙り悦上候扨
きせる御返し下され
たしかにうけとり
上候私事何の
障なくおり候 以上
 廿六日


徳充院は、大坂屋三輪長高の娘きしである。
山田杢左ェ衞門重富に嫁したが、夫の死語、有髪のまゝ徳充院と称した。その後、徳昌寺二十六世古範の弟子となり、稚髪して維馨尼と称し、大蔵経招来に尽力した。
上の書翰の「中山」というのは、出雲崎町中山の西照坊のことである。良寛は、文化四年十月五日より、こゝに住庵している。
下の書翰は、徳充院が、父の山田太郎兵衛重記に宛てた自筆の唯一のものである。
 建立 久保誠電気興業株式会社会長 久保誠吾
 昭和六十三年六月         長岡市


碑 陰
徳充院は 大坂屋三輪多仲長高の娘にしておきしと云う 山田杢左エ門重富に嫁す 夫の死後は徳充院と称した 後に徳昌寺26世古範和尚の徒となり 薙髪して維馨尼と称し 大蔵経請来に功あり 文政5年2月8日死去す
 平成元年6月吉日          久保誠吾建之

補 足
書簡宛名の太郎兵衛は 嫁ぎ先である山田杢左エ門の父・山田太郎兵衛重記とのこと

場 所
新潟県長岡市与板町東与板 いしぶみの里・良寛詩歌碑公園

筆 者
維馨尼(徳充院)

建 碑
昭和63年(1988)6月

建碑者
久保誠電気興業株式会社会長 久保誠吾

参 考
「いしぶみ良寛」続-46-096_097
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