良寛長歌「月の兎」に因みウサギの右向き画像
ロゴ 良寛さまのゆかり
良寛長歌「月の兎」に因みウサギの左向き画像
京都府宇治市
大忍魯仙修行の寺・佛徳山興聖寺
新設:2017-05-01
大忍魯仙修行の寺・佛徳山興聖寺(道元禅師初開道場)
撮影:2014-05-13

石門(総門)1648年建立
総門から200mの琴坂(参道)が続く

山門(龍宮造)
さらに 山門の奥に薬医門がある

薬医門(左の屋根は僧堂)
薬医門の手前を右に進むと庫裡(受付)

本堂(庫裡から望む)
本堂の右は 書院の玄関

【良寛と大忍魯仙】

良寛の詩に 興聖寺23世霊潭魯龍の法嗣・大忍魯仙を詠った 次のものがある
  大忍俊利士 屢話僧舎中
  自一別京洛 消息杳不通

大忍魯仙は 出雲崎の尼瀬の出身で 良寛とはかなり歳が離れているが 心が通い合う仲であったようで 大忍魯仙は良寛の詩に対し理解を示している

岡本勝美は 自著「良寛争香」の中で 良寛の父・以南の七回忌法要に 大忍魯仙が協力し 参列者は興聖寺の宿坊に宿泊しのではと記している

上に掲げた良寛の詩を見ると 十分時間をかけて話をするには 同じ屋根の下で泊まった方が都合よいし 七回忌法要の場所が桂川堤防であったとしても 興聖寺まで歩けない距離でもなく また 宇治川の水運を使うこともできたのではと思われる

ただ 当時 良寛が曹洞宗から追放に近い扱いを受けていたとしたら 興聖寺に世話になることは 出来なかったかも知れないので 他の宗派寺院に宿を求めたのではないか 伏見が交通の要所であっただけに 宿泊設備は整っていたと思われる

参考:「定本良寛全集」1-380 *1-258 *1-283 *1-383
   「いしぶみ良寛」正-77-P272_275

   良寛詩碑「大忍俊利士」(埼玉県深谷市慶福寺境内)
   大忍魯仙著「無礙秀」より「懐良寛道人」


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【興聖寺 由緒】

興聖寺は 曹洞宗の宗祖道元禅師(1200~1253)開創になる初開の道場で 正確には「佛徳山観音導利院興聖宝林禅寺」である
その所在地は 京都府宇治市宇治山田27-1 で 宇治川を挟んで対岸に平等院がある

極楽寺の子院観音音響利院の旧跡に 弘誓院殿と正覚禅尼の寄進にて七堂伽藍を建立し 正法挙揚の道場として天福元年(1233)道元禅師34才のとき興聖宝林禅寺を開創したのが始まりである

道元禅師は 在住10年 正法の眼目たる普勧坐禅儀をはじめ 正法眼蔵95巻の半数と学道用心集典座教訓など多数を撰述して正法挙揚につとめられた

寛元元年(1243)夏 道元禅師は越前の領主波多野義重公の招請を受けて越前に入った 翌年傘松峰大仏寺を開堂 次いで寛元4年(1246)吉祥山永平寺と改めたのが福井の大本山永平寺である

道元禅師入越後の興聖寺は 数代の後 応仁の乱(1467)の兵火に遭い 伽藍や記録等を消失した

寛永10年(1633)永井信濃守尚政公(1587~1668)下総国古河より山城国淀城主として入国の後 領内の霊跡周覧のとき 道元禅師開創になる興聖寺が廃絶しているのを惜しみ 両親菩提のため慶安元年(1648)伏見城の遺構を用いて諸堂を建立整備し 万安英種禅師(1591~1654)を請じて再興した 以来 300年余り 江戸時代には 畿内5ヶ国の僧録寺として また曹洞宗の専門道場として幾多の俊秀を輩出し 今日に至っている

本堂は伏見桃山城の遺構を用いて建立され 慶長5年(1600)落城の時の血の手形 足跡が残る縁板を前縁の天井にし 前縁は鶯張りの廊下である 本尊は道元禅師自作の釈迦牟尼佛を安置し天竺殿には源氏物語宇治十帖にある手習の聖観音を奉安している

(以上 興聖寺の案内書から引用)