狭 橋 燕市大河津で信濃川大河津分水路から分派した西川(狭川)に昭和33年3月に架けられた「狭橋」が 分水旭町~分水大武辺りにある 良寬が大森子陽の三峰館(狭川塾)で学んだ時代の西川(狭川)が 現在と同じ辺りを流れていたと仮定して 左に掲げた4枚の写真と次欄に掲げる良寛が「狭川・狭河」を詠込んだ漢詩を参考に 思い巡らせると 狭川塾(三峰館)は 狭川・狭河(西川)にもっと近いところ(現在の「狭橋」界隈)にあったとした方が より理解しやすいと思われる 良寛詩1 訪子陽先生墓 子陽先生の墓を訪ふ 古墓何処是 古墓 何れの処か是れな 春日草戔戔 春日 草戔戔たり 伊昔狭河側 伊れ 昔 狭河の側 慕子苦往還 子を慕ひて苦に往還せり 旧友漸零落 旧友 漸く零落し 市朝幾変遷 市朝幾ど変遷す 一世真如夢 一世真に夢の如し 回首三十年 首を回らせば三十年 良寛詩2良寛詩3 聞之則物故 二首 之則が物故を聞く 二首 人生百年内 人生百年の内 汎若中流船 汎として中流の船の若し 有縁非無因 縁有り 因無きに非ず 誰置心其辺 誰か心を其の辺に置ける 昔与二三子 昔 二三子と 翺翔狭河間 狭河の間を翺翔せり 以文恒会友 文を以て恒に友に会し 優游云極年 優游 云に年を極む 何況吾与子 何ぞ況や吾と子とをや 嘗遊先生門 嘗て先生の門に遊ぶ 行則並車騎 行くには則ち車騎を並べ 止則同茵莚 止れば則ち茵莚を同じうす (以下 34句省略) 今日出城下 今日 城下に出て 千門乞食之 千門 乞食して之く 路逢有識人 路に有識の人に逢いしに 道子黄泉帰 子 黄泉に帰すると道ふ 忽聞只如夢 忽ち聞いて只だ夢の如く 思定涙沾衣 思ひ定まりて涙衣を沾す 与子自少小 子とは少小自り 往還狭河陲 狭河の陲を往還す 不啻同門好 啻に同門の好のみならず 共有烟霞期 共に烟霞の期有り 家郷分飛後 家郷 分飛の後 消息両夷微 消息 両つながら夷微す (以下 6句省略) 場 所 新潟県燕市分水旭町2丁目と分水旭町3丁目・分水大武4丁目の間を流れる西川に架かる「狭橋」界隈 参 考 大森子陽私塾・三峰館(狭川塾)跡 「定本良寛全集」1-115 1-375 1-376 西川・新川立体交差(土木学会関東支部新潟会の「にいがた土木構造物めぐり第35回」)