新設:2017-05-01
更新:2023-02-13
撮影:2013-05-17
良寛詩碑「向夕投香閣」宿也奈伊津乃香聚閣早興眺望
- 案 内
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良寛が 文化14年(1817)秋(推定)に 会津柳津の霊巌山円蔵寺
(福満虚空藏堂)を訪ね 同寺で泊った折に 詠んだ五言30句詩を 刻んだ碑の紹介です
- 碑 文
(本碑)
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良寛詩
宿也奈伊津乃香聚閣 早興眺望
向夕投香閣 漱口禮青蓮
一燈照幽室 萬像云俱禪
鐘聲五更後 梵音動林泉
東方漸已白 泬寥雨後天
高秋八九月 爽氣磨山川
宿霧籠萬壑 初日上層巒
宝塔生虚空 堂宇遠近連
青壁挂瀑布 白波接遙天
夙昔貴遐異 周旋知幾年
如今来此地 佳妙不可宣
敦取香聚界 置之余目前
高出塵埃表 歌謡聊自延
歸期無奈何 征途忽心關
人間有栄枯 再来恐難攀
欲去且未去 卓錫思悠然
- 読下し
(副碑)
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也奈伊津ノ香聚閣ニ宿リ 早ニ興キテ眺望ス
夕ニ向イテ香閣ニ投ジ 口を漱ギテ青蓮ヲ礼ス
一燈幽室ヲ照シ 萬像云ニ禅ヲ俱ニス
鐘声五更ノ後 梵音林泉ヲ動カス
東方漸ク已ニ白ク 泬寥タリ雨後の天
高秋八九月 爽気山川ヲ磨ス
宿霧萬壑ニ籠リ 初日層巒ニ上ル
宝塔虚空ニ生ジ 堂宇遠近ニ連ル
青壁ハ瀑布ヲ挂ケ 白波遙天ニ接ス
夙昔遐異ヲ貴ビ 周旋スルコトヲ知ンヌ幾年
如今此地ニ来タルモ 佳妙宣ブ可カラズ
敦カ香聚界ヲ取リテ 之ヲ余ノ目前ニ置ケル
高ク塵埃ノ表ニ出デ 歌謡シテ聊カ自ラ延ブ
帰期奈何トモスル無ク 征途忽チ關ズ
人間栄枯有リ 再来恐ラクハ攀ジ難シ
去ラント欲シテ且ラクハ未ダ去ラズ 錫ヲ卓テテ思イ悠然
- 碑 陰
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碑陰後半に発起人と特別協賛者の多数の氏名が刻されているが 前半には撰文者小川茂正による 建碑趣旨が良寛略歴と共に刻まれている このうち 建碑趣旨部分を抜粋のうえ 次のとおり記す
良寛禅師は (略)
文化13年(1816)59歳の時 五合庵を去り 乙子神社境内の草庵に移る 住むこと10年 その間 宿願の奥州柳津香聚閣(円蔵寺)詣でを思い立ち 高秋八九月 夕べに向う頃 漸く此地に杖を置く
禅師 既に 60路に入り 感慨無量 早速 口を漱ぎ 福満虚空蔵菩薩に礼拝し しばし坐禅す 明けて 巌上の高欄に寄り 初めて見る眼下の絶景に胸うたれ この詩を作る (略)
ここに 良寛禅師が晩年 柳津を訪ね 眺望賛嘆 この絶唱を生むを 心から喜び この長詩を刻み 永く顕彰し 敬慕するものである
撰文 小川茂正
昭和61年4月29日 これを建立す
柳津町良寛詩碑建立発起人会
- 案内板
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良寛和尚像と詩碑
良寛和尚(1758~1831)が 宿願の香聚閣・柳津圓蔵寺詣でを果たしたのは 文化14年(1817)秋 60歳の時と推定される
遺された詩歌によれば 越後から江戸に出て その後北上し 圓蔵寺に詣で さらに米沢から鶴岡に進み 越後に帰ったものと思われる
良寛和尚は 秋たけなわの夕刻 ようやく圓蔵寺に杖を曳き ご本尊に礼拝し 一本の蝋燭の灯るほの暗いお堂の中で諸仏に囲まれ しばし座禅をした
翌朝 五更(午前4時頃)の鐘で目を覚ますと さわやかな秋の気が山川にみなぎり 今はない三重塔をはじめ堂宇が遠近に見えたという
往時の柳津風景と圓蔵寺伽藍の 美しく妙なる絶景に言葉を失いつつも その情景を仏典に説く理想郷・香聚界と最大級の讃辞をもって称え 2編の長詩を遺している
昭和60年 良寛和尚の柳津を唱うこの絶唱を石に刻み 永く顕彰すべく良寛禅師詩碑建立実行委員会(会長 春日源一柳津町長 当時)が発足し 翌 4月29日
桜花爛漫の下 良寛和尚の地元新潟県の関係者をはじめ多数が出席し 盛大に詩碑と像の除幕が行われた
この良寛詩碑建立を機に 柳津町は新潟県三島郡出雲崎町と姉妹都市となり交流を続けている
平成14年3月
柳津町教育委員会
- 場 所
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福島県河沼郡柳津町柳津諏訪町甲61-2
柳津町つきみが丘町民センター前庭(諏訪神社隣接)
- 筆 者
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良寛(原詩)
- 建 碑
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昭和61年(1986)4月29日
- 建碑者
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柳津町良寛詩碑建立発起人会
- 台座石
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寄贈者 三島町早戸 五十嵐信雄
会津坂下町 土田 左近
石工柳津駅前 藤田石材店
- 参 考
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「定本良寛全集」*1-096 *1-237 *1-367
「いしぶみ良寛」続-76-156_157
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