新設:2017-05-01
更新:2023-02-13
撮影:2014-05-18
玄賓塚
<玄賓塚の脇に設置された案内板に 次のとおり記されている>
史跡 玄賓塚
平安時代の高僧玄賓僧都は 奈良興福寺に於いて得度 修行の功あって 難病平癒の奇蹟をを現わし 僧都に昇任し さらに大僧都の恩命を受けましたが固辞して受けず
両国を歴遊して山中に入り 修行を重ねて備中の国に到りました
里人に農耕を勧め 水田を拓き 倉見池を築造して水利を豊かにした玄賓は 筧(かけひ)の工法や案山子(かかし)の利用も教えたと伝えられている
晩年 この地に草庵を結び 里人の信仰を受け 地名も僧都と呼ぶようになりました
弘仁9年(818)6月 80余歳で示寂せられたので 皆その高徳を慕い 草庵跡に五輪塔を建立して 供養を怠らず 遺徳の顕彰に努めて参りました
これが玄賓塚の由来と伝承されております
矢掛町教育委員会
<津田さち子著「備中良寛さん こころの寺」には 良寛と玄賓について 概ね 次のことが記されている>
- 良寛は 大通寺の寺域・小林に玄賓僧都の墓があることを知っていた
- 若く気概に燃えている良寛は 玄賓の在り方に 多くを学んだと思う
- 良寛は 「僧はいかにあるべきか」を 若く瑞々しい感性で感じていたと思う
- 良寛は 小林の僧都界隈を歩くことで 玄賓その人の後影を見る心地であったかも
- 良寛は「人はいかにあるべきか」の課題を心に刻み込み 大通寺で仮寝をしたかも
<貞心尼筆「はちすの露」末尾の「鴈島なる稲川惟清翁の書きそへしこと葉」に記された文から抜粋>
ーーー禅門に入しより僧都玄賓のあとをおひ増賀ひじりの古しへをしたひゝたぶる名利をいとひて身をなきものに思ひすてーーー
<岡山県良寛会著「良寛修行と円通寺」では P316-326に「僧都玄賓のあとを追い」として解説されている>
<大通寺住職のことば>
本サイト管理人は 大通寺を訪問後 大通寺柴口成浩住職の案内で「玄賓塚」を訪ねた
大通寺書院には 住職が「掃除は創寺にして創自なり」と書した札が何気なくおかれている これは 玄賓僧都や良寛の心につながるもので「掃除は寺創り(創寺)の基本であり 自分の心を磨き自分をつくる(創自)」ということ
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