良寛さま ゆかり
玉島中央町・周辺3
羽黒神社・清瀧寺・高瀬通し
新設:2017-05-01
更新:2023-02-13

羽黒神社・清瀧寺
撮影:2014-05-17
羽黒神社鳥居
羽黒神社拝殿
天台宗 羽黒山清瀧寺 山門
平安時代の承和5年(838)慈覚大師が唐へ渡るとき 海上にあった小島(現在の羽黒山)で阿弥陀像を刻まれ 堂中に安置したことから この島は阿弥陀山と呼ばれていたという

江戸時代の万治・寛文・延宝(1658~1680)頃 松山藩主・水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓するに当り 工事の無事完成を祈って水谷家が代々信仰してきた羽黒大権現をこの山にまつり 羽黒山と改称 併せて 羽黒権現の別当寺として羽黒山清瀧寺を建立した

明治になってからの 神仏分離令を経て今日に至っている

高瀬通し
撮影:2010-10-08

「旧高瀬通し」案内板
写真は 1994年に 玉島文化協会と玉島観光ガイド協会が設置した「旧高瀬通しの終点玉島舟だまり跡」と題した案内板

松山藩主水谷候が 万治・ 寛文・ 延宝にかけて 玉島阿賀﨑新田を開拓したときに
「高瀬通し」を設け 昭和時代になるまで活用された
要点を箇条書にすると 次のとおり

  1. 高梁川の水を利用した 灌漑と水運両用の高瀬通しであった

  2. 船穂町水江の堅盤谷から糸崎七島を経て 玉島舟だまりまで
    9km強 巾3.7m~8.5m 一ノ口水門から二ノ口水門
    へ水を入れた閘門式運河で
    パナマ運河に先んずること240年前であった

  3. 高瀬舟は下りは水棹を用い 上りは曳子が引いた

  4. 下り船には 米 大豆 茶 薪炭 煙草 漆 和紙 鉄 綿 べんがらなど
    上り舟には 北海道鰊粕 干鰯 昆布 塩 種粕 雑貨などが
    積まれた

  5. 港の北前船と並んで 江戸期の玉島繁栄の基となった 荷を 積み
    下ろす舟だまりは 羽黒山東側の約1000平方メートル(30坪)
    の水域であった

  6. 羽黒山北側に延びる水路は新町裏側に通じ 阿弥陀水門から舟は
    港に出た 明治になってからは港町に地下トンネルが出来 舟は
    そこからも港に出た

  7. 昭和になって高瀬通しは その機能を失い 道路となり 家並みが
    建ち現代に至った

 
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