良寛長歌「月の兎」に因みウサギの右向き画像
ロゴ 良寛さまのゆかり
良寛長歌「月の兎」に因みウサギの左向き画像
円通寺境内 3
田代先生追憶之碑
新設:2017-05-01
田代先生追憶之碑
撮影:2010-10-08

田代先生追憶之碑

田代亮介は 新潟県出身の医師 良寛百回忌に先立つ 大正12年(1923)円通寺を訪ね 円通寺に良寛遺墨がないのを遺憾に思い 所蔵の良寛遺墨12点を 円通寺に寄贈した
寄贈された遺墨の一つが 良寛詩碑「自来円通寺」建立に使われた
田代亮介は良寛詩碑「自来円通寺」建立者の一人

田代亮介は 昭和8年(1933)2月9日 69才で没 「田代先生追憶之碑」は柚木方啓(玉邨)の選・書により 昭和9年(1924)に建立された

碑 文:君田代氏名亮介號太白越後柏崎人業醫有國士風盡
    力公共事久得大隈公知創設同仁病院與有力被推為
    理事常慕良寛禅師為人屢訪圓通寺以其修行地也及
    建詩碑周旋無所不至又寄所蔵良寛墨跡十二幅可謂
    萬矣昭和八年二月九日病歿于東京歳六十九後一年
    建此碑永憶其人銘曰
    業維仁術 志在奉公 見良寛碑者 應憶君高風
    昭和九年孟春   辱知 柚木方啓撰并書丹
                      原拝石刻

     
田代亮介の略歴 ~反町タカ子著「良寛堂建立の記録」より~
  

反町タカ子著「良寛堂建立の記録」
佐藤耐雪の「用留」を読む
表紙カバー


左写真の反町タカ子著「良寛堂建立の記録」P205-206に 次のとおり記されている

田代亮介氏(1865~1933)

耐雪は最も早い時期に良寛の記念碑についての相談をしている 「甲子帖」には大正3年5月28日に「良寛狂といわれている田代亮介氏を訪う」という記述がある
大正11年9月16日の良寛堂の建立式に参列 夜出雲崎小学校で「良寛禅師のご高徳について」と題して記念講演した 良寛堂造営喜捨:拾円

慶応元年南鯖石村(現・柏崎市)に生まれ 医師田代太亮の養子となり 新潟医学校を卒業後 新潟市に田代病院を創設 公共事業に尽力 明治38年東京に移り 後の大正天皇の侍医頭入澤達吉氏や大隈重信候の勧めで医療団体「同仁会」を興して理事として 中国・満州・韓国の医療救済に努力した

明治43年入澤達吉 大竹貫一 内藤久寛 大倉喜八郎 市島謙吉 小柳市造の諸氏と「新潟県人会」を創設 大正7年に県人会内に「良寛會」が発足するや 同年2月の「良寛遺墨展」と「良寛上人追悼会」で中心人物として活躍 大正12年に愛蔵の良寛遺墨12点を玉島の円通寺に寄進

昭和2年顕彰事業の募金活動に越後出身の桝澤清氏作の良寛座像(後の良寛堂裏の彫像の原型)の頒布会を結成 この浄財を基に円通寺境内を整備改修 昭和7年には円通寺に 田代氏寄進の遺墨「自来円通寺 不知幾春秋――」の良寛詩碑が建立された 著書として私家版の『良寛禪師略傳』がある