良寛長歌「月の兎」に因みウサギの右向き画像
ロゴ 良寛さまのゆかり
良寛長歌「月の兎」に因みウサギの左向き画像
円通寺境内 3
良寛詩碑「自来円通寺」円通寺
新設:2017-05-01
 
良寛詩碑「自来円通寺」円通寺
撮影:2014-05-17他

良寛詩碑「自来円通寺」
左に案内板、右に詩碑

良寛詩碑「案内板」
撮影:2010-10-08

良寛詩碑(朝日を浴びている)
撮影:2010-10-08

左奥に良寛詩碑「自来円通寺」
右は星浦観音堂

良寛詩碑「自来円通寺」拡大


案 内
良寛詩碑「自来円通寺」は 左4番目写真のように星浦観音堂の左奥にあるが 国民宿舎「良寛荘」から南参道の階段を上ったところに建っている
高さ4mとも5mともいわれる碑の大きさが 左上写真で 案内板と比べるとわかる

昭和5年 良寛百回忌を機に 良寛を敬慕する人によって建碑が進められ 碑の左半分に刻された跋文には「昭和五年九月」と刻されている しかし 難工事の末 実際に建立されたのは 翌年の昭和6年であったという

碑 面
詩文
自来円通寺  不知幾春冬
門前千家邑  更不知一人
衣垢手自洗  食尽出城闉
曽読高僧伝  僧可可清貧
       沙門良寛書

跋文
是良寛禅師壮時在本寺所作之詩而晩年書也禅師山本氏父曰伊織越後出雲崎人性真率不喜世俗之事歳甫十八入尼瀬光照寺為僧自號大愚我國仙和尚行化越後禅師服其徳乃随而来本寺時年二十有二修禅托鉢道與徳日進不復労鉗鎚國仙付偈曰良也如愚道転寛騰騰任運得誰看為付山形爛藤杖到処壁間午睡間禅師逍遙自然不敢自矜持時則飛錫四國九州如此者凡二十年破衲草鞋途逢児童輙與嬉戯及國仙已寂父亦死乃去還故國歳四十七住國上山五合庵斗室蕭然寒素自安薪水自理道行高潔衆益敬之六十移居山下乙子七十寓島崎村木村氏天保二年正月六日寂世寿七十有四葬邑之隆泉寺禅師善詩歌兼妙草書江戸老儒亀田鵬齋曾游越見之歎曰吾見良寛
  悟草書之妙矣後一百年追慕其徳者遐邇醵質以其詩勒石建于此云
    昭和五年九月     圓通寺二十五世比丘戒全謹識
                      柚木方啓謹書
                             原拜石刻

場 所
岡山県倉敷市玉島柏島451 (曹洞宗)補陀洛山円通寺境内
筆 者
詩文 : 良寛(原本は新潟出身の田代亮介が円通寺に寄贈したもの)
跋文 : 柚木方啓(号玉邨 通称梶雄)

建 碑
昭和5年9月(碑面) ただし 実際は昭和6年(1931)
建碑者
田代亮介 大宮季貞 大島清作 柚木梶雄 三宅元雄 小野林太郎 萱谷誠之
安原愛助 仁科八曾七 井上亀二 井出退三 (碑陰に刻されいるという)

案内板
円通寺詩碑解題

円通寺に来たりしより 幾春冬なるを知らず
門前千家の邑 更に一人だに知らず
衣垢づけば手づから洗ひ 食尽くれば城闉(いん)に出づ
曾って高僧伝を読みしに 僧は可々(かなり)に清貧なりき

良寛は円通寺国仙和尚の許で安永8年22才の時に安居修行の場を求めてより幾度四季の変転をみたことか 門前に数多くの家並を見ることもできるがだれ1人として知己友人と呼べる者はいない 衣が汚れれば 自ら洗い 食べ物がなくなれば 1日と13日に村方へ托鉢に出かけるのだが それは以前大蔵経の高僧伝を読んだ際 僧は清貧に甘んじることだと記してあったからだ

因みに 結句については 「僧は可々(かなり 相当)に清貧なりき」と 良寛愛読の寒山詩に「昔日可々貧 今日最貧凍」の一節を論拠として 「清貧に甘んじた高僧は古今を問わず かなり相当数実在していた」解される
何れにしても 後年子供達と任運騰々 行雲流水の時を楽しむ良寛の姿など 想像もできないほどの弁道精進一途な模範的青年僧良寛の姿が目に浮んでくる

   平成3年1月25日
              全国・岡山県良寛会顧問
                 長川寺東堂 吉川彰準

参 考
「定本良寛全集」*1-001 *1-233 *1-354
「いしぶみ良寛」正-80-282_285 正-81-286_289