【山本家墓碑の建立者】 2015年5月 高志書院刊 塩浦林也著「良寛の探究」は 概ね 次の推測を記している(詳細は 同書P31-45) 高野山奥の院に「山本家墓碑」を建立したのは 良寛の父・以南であって 墓碑左面に刻された「山本甚三郎」は以南が当人の名を隠すため ありふれた名を付けた 以南は 一世一代の仕事として 独力で密かに 山本家先祖の供養塔を高野山奥の院に建てるために京都に上った 以南に「蘇迷盧の山をかたみにたてぬれは わかなきあとはいつらむかしそ」の和歌(良寛遺墨)がある 注:蘇迷盧(そめいろ)の山=高野山 冨澤説によると 以南には 京都において 短くて1年7ヶ月 長くて2年2ヶ月の時間があった筈 しかし この間に 以南が何をしていたかの記録が見つかっていない 【山本家墓碑の場所】 1992年3月 恒文社刊 小林新一著「良寛巡礼」は P95に「高野山にある山本家の墓」としてカラー写真1点を掲載し 「奥の院20万基の墓石のなかに 越後国出雲崎住山本某を名のる墓を見出し 墓碑の戒名は良寛の生家 山本一門との確認もとれた」と記した その後 「良寛巡礼」の著者・小林新一の案内で「奥の院・御廟近くの山本家墓」を訪ねた松本市壽は 全国良寛会会報67号上に 墓碑の写真1点を添えた報告を行い 墓碑に刻まれた4人の戒名と施主名を明らかにした 以上 2者の報告で 同墓碑を訪ねる時に 参考になる点を整理すると次のとおり 場 所…高野山奥の院 御廟に近い 芭蕉句碑に近い 塔頭宝亀院統括の墓域 バス停「奥の院前」から御廟を目指すと句碑誓子辺りで左折する 形 状…2者が添えた写真 墓碑銘…正面の4人の戒名(省略) 左側面の「施主越後国出雲崎住山本甚三郎」 以上の情報を基に 本サイト管理人は「一の橋」から山本家墓碑を訪ねたが 探し出すのに多少時間を要した 先ず 芭蕉句碑の周辺にある 墓碑頭部形状が似ている墓碑を探し 次に 山本甚三郎と刻まれているか確かめた…写真1と写真2を参照… 今後 山本家墓碑を訪ねたいと思われる方のための 追加情報は次のとおり バス停「一の橋口」から御廟を目指し 「中の橋」を過ぎて しばらく進む 右側に「英霊殿」から来る道と合流直後に 左側にある「崇源院秀忠夫人墓碑」 に向かう道へ左折する(芭蕉句碑 父母恩重碑より 中の橋 一の橋 寄り) …写真3と写真4を参照… 左折した道の奥に1番石といわれる「崇源院秀忠夫人供養塔」があり その手前に「陸軍関係慰霊碑」があるが そこまでは進まない 写真5に写る右折道を入って 直ぐ左手奥に山本家墓碑がある