良寛が 弘川寺(ひろかわでら)を訪ねた時期は不明であるが 良寛は次の歌を詠んでいる 西行法師の墓に詣でて 花を手向けて詠める 手折り来し 花の色香は 薄くとも あはれみ給へ 心ばかりに 弘川寺は 天智天皇4年(665)役行者によって開創され 天武 嵯峨 後鳥羽の3天皇の勅願寺で 本尊は薬師如来 幾度かの戦火に遭いながら 桜の名所として特に春は賑わう (場所:大阪府河南町弘川43) 本堂(写真1)の右手から山道を登ると 本堂の真後辺りの高台に西行堂(写真2)がある さらに 山道を登ると 西行墳と似雲墳がある広場にである 広場に出て 直ぐ左手にあるのが似雲墳で 右手奥にあるのが西行墳(写真3)で それぞれの墳の前に案内板が設置されている 2つの墳がある広場には 西行歌碑 似雲歌碑の外 著名歌人が西行を詠んだ歌碑が建っている(西行と似雲の歌碑は 本ページ後段で紹介) 似雲墳の左後方の山道を進むと 西行庵趾があって さらに山道を登ると 似雲法師が住んだ草庵(花の庵)趾がある 江戸中期広島出身の歌僧似雲法師は 西行を慕い その終焉の地を求めて この地に西行の古墳を発見した その後 西行墳の周辺に千本桜を植え その中に「花の庵」を建てて住み 西行堂を建立 生涯を西行追慕に捧げた 西行歌碑(石碑) 願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ (金沢の歌人尾山篤二郎筆 西行墳の左手前にある写真4) 仏には 桜の花を 奉れ わが後の世を 人とぶらはば (佐佐木信綱筆 似雲墳の近くで 西行山桜上り口近くにある) 年たけて 又越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山 (川田順筆 西行堂の左脇にある) 西行歌碑(西行庵趾木製立札) 麓まで 唐紅に 見ゆるかな さかりしぐるる 葛城の峰 訪ね来つる 宿は木の葉に 埋もれて 煙を立つる 弘川の里 似雲歌碑(石碑) 尋ねえて 袖に涙の かかるかな 弘川寺に 残る古墳 (似雲自筆 似雲墳前方も樹木の間にある) 似雲歌碑(似雲花の庵趾木製立札) 須磨明石 窓より見えて 住む庵の うしろにつづく 葛城の峯 参 考:「定本良寛全集」2-0396 河南町サイト