案 内 能勢電鉄妙見口駅から 高代寺へ 12基の古い町石などに導かれて進むと 写真1の手前辺りに出る(ただ 本サイト管理人が訪ねたときは 最後の1町が斜面崩落で通行止めのため 竹林の中を登って 高代寺墓域に通ずる道に出た後 右手に進んだ) 写真1の左端に 高代寺の庫裡 その直ぐ右手前に鐘楼 そして鐘楼の手前に良寛歌碑が大杉の下に佇んでいる 写真2の左奥に鐘楼がある 写真3の左から順に 脇碑 歌碑本体 由来碑(上部は豊能町観光協会設置の歌碑案内板)が並んでいる 歌碑「つのくにの」には 良寛直筆の文字を拡大して刻んであるが 草書体のため建碑者が添えて呉れた 「脇碑」碑面に刻されたものを 次のとおり紹介する 脇碑面 良寛歌碑 堂可能々美天良耳也東里天 たかのゝみてらにやどりて 都能久尓乃堂閑能々於久能不留轉羅尓 つのくにのたかのゝおくのふるてらに 数起乃志都久遠幾々安閑之都々 すぎのしづくをきゝあかしつゝ 沙門良寛書 由緒碑 ……省略…… 備中玉島(現在の岡山県倉敷市玉島)円通寺の国仙和尚から得度を受け 爾来およそ十七年間円通寺で修行した その間名僧知識に参学するため行脚僧として各地を巡ることもしばしばであったが ある暁一夜をこゝで過し 感慨を詠んだのがこの歌である 当高代寺は天徳四年(960) 源氏の長者多田満仲が建立した寺で 霊域が紀州の高野に代る寺として高代寺と名づけ源氏全盛を極めた 当時は女人禁制の霊場であったが 後戦禍のため寺坊の殆ど失ったので 制度が弛み いつとはなく女人高野と呼ばれるようになった 歌のはじめの「つのくにのたかの」即ち「摂津高野」とは当高代寺のことである 良寛掛錫を記念し こゝにその遺墨拡大して歌碑とする 注 良寛歌碑「つのくにの」の建碑者・岡元勝美は この歌にある「たかの」は和歌山県高野山であるとする通説に疑問を抱き 苦心の末 「たかの」は摂津の当「高代寺」であると確信し 世に問い受け入れられた ここに建つ良寛歌碑「つのくにの」は 岡元勝美が私財を投じて建てたもの 下に掲げたWebページ「七宝山高代寺」は参考となる なお 歌「つのくにの」は 良寛自筆歌集「ふるさと」の4番目に載っている 場 所 大阪府豊能町吉川756 (真言宗御室派)七宝山高代寺境内 筆 者 良寛 建 碑 昭和51年(1976)9月15日 建碑者 岡元勝美・「良寛争香」著者 参 考 岡元勝美著「良寛争香」P103-113 「定本良寛全集」2-0004 「いしぶみ良寛」正-79-P278_281 Webページ「七宝山高代寺」 Webページ「高代寺参道コース」
写真4の階段左下にある 豊能町観光協会が設置した案内板に 次のとおり記されている 源氏の元祖・六孫王を祀る高代寺 本寺は平安初期に空海が巡錫・山頂近くに泉(閼伽井)を発見・薬師如来を祀り草庵を結んだことに始まります その後 天徳4年(960)源満仲が父六孫王・経基の三回忌に当り八幡宮を勧請・地仏を本尊に六孫王(諡号=高代寺殿)と愛宕山権現を併せて六宮権現とし 源氏の宝物を寄進して 七宝山 高代寺 薬師院 としたのです 清和源氏は藤原仲光 美丈丸 幸寿丸事件を通して北摂に根付き わが国の武家政治(鎌倉・室町・江戸三幕府)の礎となりました 一時は 千二百石の寺領を有し多数の伽藍と宿坊を有していましたが 幾度かの戦火に遭い 清盛の時代に領地を没収される等 時代と共に盛衰を重ね 現在に至っています 江戸末期には 禅僧良寛が訪れています