勝尾寺を路線バスで訪ねるのは 特に平日は本数が極めて少ないので不便であるが 境内は広く 景観は見事である 本サイト管理人が訪ねたときは鶯が盛んに鳴いていた 本堂(写真2)手前にある案内板に 次のとおり記されていた 本尊十一面千手観世音菩薩 創建より千数百年 幾度かの修復を重ね この度も往時の朱塗りにて修復されました 千数百年の時空を越え 今 神仏は我々に何を発せられているか本尊と向き合い 体感してみて下さい 合掌 場所: 大阪府箕面市勝尾寺 参考: 勝尾寺サイト ……………………………………………………………………………………………… 岡本勝美著「良寛争香」は 良寛の歌に 「いくたびか詣る心は勝尾寺ほとけの誓いたのもしきかな」があるという 岡本勝美著「良寛争香」P37-38に 次のとおり記されている いくたびか詣(まい)る心は勝尾寺ほとけの誓いたのもしきかな この歌はまぎれもなく良寛の作である そもそも西国三十三所観音霊場については花山法皇はじめて巡礼の道を開き それぞれの寺に各一首の和歌を作って詠歌としたと伝えられる例えば 第23番 勝尾寺 重くとも罪にはのりの勝尾寺(かちおでら)仏を頼む身こそやすけれ 第8番 長谷寺(はせでら) いく度も参る心は初瀬寺(はつせでら)山も誓ひも深き谷川 第3番 粉河寺(こかわでら) 父母の恵みも深き粉河寺仏の誓ひたのもしの身や 長谷寺の上の句と 粉河寺の下の句をくっつけて 一寸手を加えたのが良寛の歌である 即ち 初句「いくたびも」を「いくたびか」に変え 末尾「たのもしのみや」を「たのもしきかな」に修正している このように 他人の作に一寸した修正を加えて纏めるのが良寛がしばしば用いている方法で 別にこれによって優劣を競うとかいう意味ではなく ただ単に 私ならこのように詠むだろう こちらの方が好きだ くらいの軽い気持ちで詠み流しているのである だから世間の所謂 盗作とか剽窃とかとは全然次元の違う問題である さらに 良寛がこのように自在に三十三所の詠歌を操っている点から見ると もしかしたら良寛自身 一度は西国三十三霊場巡りをしたのではとあるまいかということも充分考えられる ……中間省略…… なお 記録によると勝尾寺山内に「光明院碑」があるので それを光明皇后の碑と誤解された向きも見受けられるが これは所謂 南北朝時代の北朝 光明天皇のものであり 「光明皇后の塔」は 山一つ隔てた下止々呂美村豊楽寺にあったが この寺は焼失したと『摂陽群談』に出ている ……以下省略…… [注] 谷川敏朗著「良寛の旅」P224では 次のように述べている 良寛の遺墨では 上の句が「いくたびもまへる心ははつせ寺」となっているから 良寛が勝尾寺を参詣したかどうかについては疑問が残る 小林新一著「良寛へ歩く」P137では 上掲の谷川敏朗著「良寛の旅」の記述から引用したと思われる記述があるが 谷川敏朗が提起した疑問には何も反応していない 岡本勝美著「良寛争香」は 良寛の歌とした「いくたびか詣る心は勝尾寺ほとけの誓いたのもしきかな」の出所を明示していない 他の事柄は論拠を詳しく挙げているのに これは 何故か出所がない もしかしたら 「まぎれもなく良寛の作」というのは「遺墨があるはず」との願望であったのか