良寛の父・以南は 寛政7年(1795)7月25日に 次の内容を記した紙を 桂川堤防の柳の木に結んで入水し 遺体は発見されないままであったという 天真仏の仰によりて 以南を桂川のながれにすつる そめ色の 山をしるしに 立をけば わがなきあとは いつの昔ぞ [注] 桂川は 嵐山渡月橋より下流で 宇治川と合流して淀川とまるまでの間の呼称 ……………………………………………………………………………………………… 岡本勝美は その著「良寛争香」P78-88において 概ね次のことを記している 伏見は 旧山城国紀水郡にあった 伏見は 京都に近いが京都に入らない 水陸両面で交通の要衝であった 桂川は 伏見の中心から西に約2㎞の地点を流れている 以南7回忌翌年の良寛作「中元歌」第14句の「紀水墳」は「桂川堤」であって 和歌山県を流れる「紀ノ川」の堤防とするのは誤り 和歌山県高野山で以南の法要を行ったと推測しうる客観的資料が全くない 京都における以南の滞在地は 伏見の町であったに違いないと確信する なお Webページ「市の変遷(京都府)」によると 伏見地区は大正8年(1929)4月まで 紀伊郡伏見町であった 1929-05-01 紀伊郡伏見町が伏見市となる(市制施行) 1931-04-01 伏見市が京都市伏見区となる(伏見区を新設し京都市に編入) 昔 桂川と鴨川の合流地点は「佐比(さい)河原」と称され 幼い子供の葬送地であったという 以南はその葬送地を選んで入水したのではと思われる 以南が住んでいたところが伏見(現在の伏見区ではなく古い伏見)であったとすると 脚気で歩行困難であったとしても 約半里の道は歩けたはず(写真1参照) 以南七回忌法要場所も 以南の俳諧仲間と遺族が集まるには 交通の要所ゆえに ここ桂川堤が便利であったと思われる 鴨川は 桂川と合流する直前に 西高瀬川と合流している 写真3の「羽束師(はずかし)橋」は 桂川と鴨川の合流地点に大変近いところにあり 岡本勝美が自著「良寛争香」に載せた写真に写っている橋の後身で 自動車と人を分離するため2階建となっている 羽束師橋の東詰(左岸)堤防上に 道標「嵐山渡月橋まで13.9㎞」と50m下流に 豊臣時代から明治10年までの約300年の間に賑わった魚市場があったことを伝える案内板が設置され 案内板には次のとおり記されていた 草津みなと 鱧(はも)海道 由来 昔 ここ横大路の桂川左岸一帯に 大いに栄えた草津湊(みなと)がありました 平安建都以来 京の都から浪速方面をつなぐ一番近い港として 旅人や米・薪炭など百貨の輸送に利用されました 中でも魚市場は 豊臣秀吉の時代から 明治10年神戸・京都間に鉄道が開通するまで 約300年の間 たいへん賑わい 海の魚を積んだ大型の曳き舟が瀬戸内・四国・和歌山方面から連日数十隻 夜を徹して淀川・桂川をさかのぼってきたと記録されています 荷揚げされた魚は 陸路を走って京の都に届けられました 魚や野菜の初ものを「走り」と呼ぶ語源だと伝えられています 海から40キロも離れたところに位置する魚市場は 当時 世界でも他に例を見ないと言えましょう 中央市場のルーツとなった大きな存在でした 「魚市場遺跡」碑は 横大路草津町の羽束師橋下流50mにあり 当時の賑わいや移転のいきさつを詳しく記しています 夏でも 生きたまま運ばれた鱧(はも)は 京の料理を代表する魚として珍重されました 私たちは このルートを「鱧(はも)海道」と呼ぶことにしました 2010年(平成22年)5月16日 横大路桂川・草津みなとフェスティバル実行委員会