1.西照坊創建……安永元~2年頃(1772~1773) | |
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1-1 | 創建は当地南波家より出た妙喜尼である 初めその家号をとり「中の家の堂」と呼んだ |
1-2 | 良寛が光照寺で修行したのは 安永4~8年である 従って2~3年は尼とのかゝわりがあったと思う |
1-3 | 南波家七代の当主も晩年出家してこの坊に住んだ |
2.良寛帰国……寛政7~8年頃(1795~1796) | |
2-1 | 良寛の帰国にはいろいろの説があるが 寛政7年の暮れと考える |
2-2 | 当時 良寛にとって 争いの渦中にある生家のことは 一番気がかりであったと思う |
2-3 | 以前から知っている 然も生家に近く 地形的には区別されている中山へ 最初に来たことは間違いない |
2-4 | 良寛は 短い滞在で生家のことを知り ここを立ち去ったであろう 郷本庵は 次にはっきりした所在である |
2-5 | 良寛は 文化7~8年頃(橘屋が没落し終る)まで 短期間しばしば中山に滞在したようである 以後 年齢的な事情もあり その脚は遠くなった |
2-6 | 良寛が確実に中山に在庵したのは 文化4年10月である(与板 大阪屋にあてた手紙による) |
3.西照坊 村の共有となる ……文化7~8年頃(1810~1811) 西照坊の呼び名もこの頃からであろう |
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3-1 | 世間からの尼僧が住みつくようになった為である |
3-2 | 記録に「西照坊」と書いたのは 明治5年「西照坊住職」と肩書きした僧の過去帳である(佐藤家過去帳の中に) |
4.西照坊焼失……明治39年(1906) | |
4-1 | 38年説もあるが 南波家の傳承から39年が正しいようである 庫裡は全焼 堂は半焼程度であった |
4-2 | 間もなく再建されたが 用材は焼け残りの材や 佐藤家の土蔵に使った古材を用いている |
5.西照坊倒壊……昭和36年(1961) | |
5-1 | 36年8月の集中豪雨で裏山が崩れ 倒壊して押し出され流され 残骸さえとどめない程であったが 僅かに虹桁と柱2本を収納することが出来た |
5-2 | 南波益夫氏の説によると 虹桁は明治39年の焼け残りで 当初 良寛当時のものであろう |
6.西照坊再々建……昭和55年(1980) | |
6-1 | 昭和54年「小木の城山」復刻委員会は 良寛150回忌の記念事業として 再々建を決め 翌55年5月竣工した(但し堂のみである) 経費総額330万円(内町費補助150万円) |
6-2 | 以後 西照坊の管理は良寬記念館に移された |
6-3 | 良寛歌碑と境内の整備は 良寛景慕会が記念事業として行ったものである |