良寛さま ゆかり
中山598甲
扁額「西照坊関係年表」
新設:2017-05-01
更新:2023-03-01

扁額「西照坊関係年表」
撮影:2011-05-17
扁額「西照坊関係年表」
上方に掲げられた扁額
下方に掲げられた額には
良寛の次の歌が書かれている
「泡雪の 中にたちたる 三千大千世界
またその中に 沫雪ぞふる」
<注>三千大千世界(みちおほち):良寛の造語

明治39年(1906)焼失後
焼残材などを使って直ぐに再建
昭和36年(1961)集中豪雨による
流失倒壊時に回収した虹桁・柱2本は
良寛在世時のもの
西照坊関係年表 <注>縦書を横書 数字等の表記一部変更
1.西照坊創建……安永元~2年頃(1772~1773)
1-1 創建は当地南波家より出た妙喜尼である 初めその家号をとり「中の家の堂」と呼んだ
1-2 良寛が光照寺で修行したのは 安永4~8年である 従って2~3年は尼とのかゝわりがあったと思う
1-3 南波家七代の当主も晩年出家してこの坊に住んだ
2.良寛帰国……寛政7~8年頃(1795~1796)
2-1 良寛の帰国にはいろいろの説があるが 寛政7年の暮れと考える
2-2 当時 良寛にとって 争いの渦中にある生家のことは 一番気がかりであったと思う
2-3 以前から知っている 然も生家に近く 地形的には区別されている中山へ 最初に来たことは間違いない
2-4 良寛は 短い滞在で生家のことを知り ここを立ち去ったであろう 郷本庵は 次にはっきりした所在である
2-5 良寛は 文化7~8年頃(橘屋が没落し終る)まで 短期間しばしば中山に滞在したようである 以後 年齢的な事情もあり その脚は遠くなった
2-6 良寛が確実に中山に在庵したのは 文化4年10月である(与板 大阪屋にあてた手紙による)
3.西照坊 村の共有となる
   ……文化7~8年頃(1810~1811)
     西照坊の呼び名もこの頃からであろう
3-1 世間からの尼僧が住みつくようになった為である
3-2 記録に「西照坊」と書いたのは 明治5年「西照坊住職」と肩書きした僧の過去帳である(佐藤家過去帳の中に)
4.西照坊焼失……明治39年(1906)
4-1 38年説もあるが 南波家の傳承から39年が正しいようである 庫裡は全焼 堂は半焼程度であった
4-2 間もなく再建されたが 用材は焼け残りの材や 佐藤家の土蔵に使った古材を用いている
5.西照坊倒壊……昭和36年(1961)
5-1 36年8月の集中豪雨で裏山が崩れ 倒壊して押し出され流され 残骸さえとどめない程であったが 僅かに虹桁と柱2本を収納することが出来た
5-2 南波益夫氏の説によると 虹桁は明治39年の焼け残りで 当初 良寛当時のものであろう
6.西照坊再々建……昭和55年(1980)
6-1 昭和54年「小木の城山」復刻委員会は 良寛150回忌の記念事業として 再々建を決め 翌55年5月竣工した(但し堂のみである) 経費総額330万円(内町費補助150万円)
6-2 以後 西照坊の管理は良寬記念館に移された
6-3 良寛歌碑と境内の整備は 良寛景慕会が記念事業として行ったものである

場所 新潟県三島郡出雲崎町中山598甲 西照坊内
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