碑 面 良寛禅師剃髪之寺 出雲崎禅学会建之 案内板1(参道入口) 良寛剃髪の寺 海岳山光照寺といい 曹洞宗永平寺を本山としている 上杉謙信公の母堂が参籠されたと伝えられる 入口の階段右に相馬御風の筆による「良寛禅師剃髪之寺」の石碑がある 良寛は幼名を栄蔵といい 元服して文孝と名のった 安永4年の18才のとき感ずるところがあって出家し 当寺の玄乗破了和尚により剃髪されて ここできびしい修行をして四年間を過ごした 22才の時、国仙和尚に従い良寛と名のり大愚と号して 備中(現在の岡山県)玉島円通寺に赴き更に修養した 良寛自筆の「招隠舎」の扁額がある 出雲崎町 案内板2(碑前方) 越の歴史自然ルート 光照寺 良寛は安永4年(1775)18才で発心して光照寺に入り 安永8年22才で備中玉島円通寺の国仙和尚について備中の国へ赴くまでこの寺で禅の修行にはげんだ 光照寺には良寛の招隠舎の額がある また 寺の登り口には「良寛禅師剃髪之寺」の碑があり その裏に「良寛禅師をしぬびまつりて ももとせの 昔は昔 今の世に まさは如何にと 思ほゆるかも」の相馬御風の歌がほられている 新潟県・出雲崎町 場 所 新潟県三島郡出雲崎町尼瀬1280(伊勢町)光照寺境内 筆 者 相馬御風 建 碑 大正11年(1922) 建碑者 出雲崎禅学会 参 考 「いしぶみ良寛」正-35-P132_135 蛇 足 本サイト管理人が 出雲崎町を訪ねたのは3回だけである 訪ねる度に 良寬の生誕地・橘屋跡と光照寺の間を歩いてみるが その間は 大変短く 約1㎞ 10分である 平たくいえば 良寬は ある日 突如家出をした 家出をするのに縁続きとはいえ 尼瀬にある光照寺に入り 4年間も過ごしたなど とても信じることはできない むしろ 良寬の実の親かも知れない 新津の桂誉章(かつら たかあき)を頼って かくまわれ こころの師ともいわれる大而宗龍をはじめとする 玉島円通寺系禅師らにかかわる話を聞き 坐禅をし 出家の決心をした 大忍国仙に従って 玉島に赴くに当り 実家に近い光照寺で剃髪 両親らに別れの挨拶をした と考えた方が わかり易い また 良寬は母を思う歌を幾つも詠んでいるのに 歌の宗匠であった実弟・山本由之が 母を思い詠んだ歌が発見されていないらしことも 不思議である