良寛上人逝いて127年 生誕201年を迎えて 今さらに偲ばれるものは万物蒼生に及んだ慈風徳化の足跡であり 然も詩は淵明寒山杜甫李白 歌は人麿赤人
書は懐素道風の真髄を極めて 今に遺る断翰零墨は 正に金玉にも換え難きものとして世の渇仰を蒐む 蓋し武将謙信に並んで越佐の青史に永劫燦として耀く文武の双壁であろう
安永3年18才にして得度し 同7年備中玉嶋圓通寺国仙和尚の来越するや 其の大徳を慕うて 玉嶋に至り 居ること20有2年 時に全国を雲水行脚し学徳円熟して
寛政11年郷に還り徳風遍く 天保2年73才を以て示寂した
其の母秀子刀自は 本町橘屋山本庄兵衛の長女 17才にして越後出雲崎の同族山本新左エ門の養女となり 与板町新木与五右エ門の二男左門を迎えて 4男3女あり
良寛は即ち其の長子である 刀自は国事に没頭奔走して寧時なき夫に後顧の憂を課さず 傍ら子女の庭訓に日夜を労して 令聞200年の今に伝えて なお嘖々たるものあるは
一に其の淑徳賢母の功に因る 天明3年4月28日歿 享年49 生家の菩提所大乗寺に分骨合葬し 仏諡は 樹林院法音蓮秀大姉
茲に 同志相糾って景仰の碑を建て 上人が出雲崎海浜に低徊佇立し そぞろ亡母の郷国を煙波の上に望んだ綿々哀切の詠歌を真蹟のままに刻んで その徳を頌する所以である
昭和33年9月
良寛と母の思慕会会長 松栄俊三
森 三郎撰
佐藤奥松書
清水辰雄鋳