良寛さま ゆかり
相川坂下町
良寛の母の碑・良寛歌碑「たらちねの」
新設:2017-05-01
更新:2023-02-19
撮影:2013-05-16
良寛の母の碑・良寛歌碑「たらちねの」


良寛の母之碑(正面)
付 良寛歌「たらちねの」
写真1

「良寛の母の碑」左側面
「良寛母の頌徳碑文」
写真2

建物(郷土博物館左側)前
中央近くに「良寛の母の碑」
右側の大きい碑は
「南沢大疏水坑道貫通記念碑」
写真3

案内標柱
「良寛の母の碑」
「南沢疏水坑道貫通記念碑」
写真4

案 内
「良寛の母之碑」は 建碑場所入口からは「良寛母の頌徳文面」が見え(参照:写真2~3) 右にまわると碑の正面となる 碑正面にはめ込まれた良寛歌「たらちねの」と左側面の「良寛母頌徳文」は 何れも陽刻された青銅版
なお 郷土博物館入口は 写真3手前の道を 写っている右建物の右外側を進んだ左側にある

碑 面
  良寛の母之碑
            有田八郎 書

   たらちねの ははがかたみと あさゆふに
      佐渡のしまべを うち見つるかも 
                   良寛

頌徳碑文
(左側面)
良寛上人逝いて127年 生誕201年を迎えて 今さらに偲ばれるものは万物蒼生に及んだ慈風徳化の足跡であり 然も詩は淵明寒山杜甫李白 歌は人麿赤人 書は懐素道風の真髄を極めて 今に遺る断翰零墨は 正に金玉にも換え難きものとして世の渇仰を蒐む 蓋し武将謙信に並んで越佐の青史に永劫燦として耀く文武の双壁であろう 安永3年18才にして得度し 同7年備中玉嶋圓通寺国仙和尚の来越するや 其の大徳を慕うて 玉嶋に至り 居ること20有2年 時に全国を雲水行脚し学徳円熟して 寛政11年郷に還り徳風遍く 天保2年73才を以て示寂した

其の母秀子刀自は 本町橘屋山本庄兵衛の長女 17才にして越後出雲崎の同族山本新左エ門の養女となり 与板町新木与五右エ門の二男左門を迎えて 4男3女あり 良寛は即ち其の長子である 刀自は国事に没頭奔走して寧時なき夫に後顧の憂を課さず 傍ら子女の庭訓に日夜を労して 令聞200年の今に伝えて なお嘖々たるものあるは 一に其の淑徳賢母の功に因る 天明3年4月28日歿 享年49 生家の菩提所大乗寺に分骨合葬し 仏諡は 樹林院法音蓮秀大姉

茲に 同志相糾って景仰の碑を建て 上人が出雲崎海浜に低徊佇立し そぞろ亡母の郷国を煙波の上に望んだ綿々哀切の詠歌を真蹟のままに刻んで その徳を頌する所以である

     昭和33年9月
良寛と母の思慕会会長  松栄俊三   
森 三郎撰  
佐藤奥松書  
清水辰雄鋳  


場 所
新潟県佐渡市相川坂下町20 相川郷土博物館奥の左脇
写真4に写る案内標柱の所(郷土博物館入口より手前)から入る

筆 者
題 字  有田八郎
 歌   良寛
頌徳文  佐藤奥松

建 碑
昭和33年(1958)10月

建碑者
良寛と母の思慕会

鋳造者
清水辰雄

参 考
「定本良寛全集」2-0823
「いしぶみ良寛」正-76-P268_271
「相川郷土博物館」

相川郷土博物館案内標識
右上に北沢浮遊選鉱場跡
写真5
相川郷土博物館入口
建物は御料局佐渡支庁時代以前
写真6
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