碑 面 原田要右衛門による須走間歩の完成を喜び この秋は八束穂足りてこころよし青人草 手を打ちて歌ひ舞ふやつがれかくなむ 秋の田の穂にでて今ぞ知られける かたへに余る君がみふへを 良寛 あし引きの山下うがちゆく水の 流れはつきじ千代も八千代も 定珍 文政元年 秋九月 検見する序に 銘 板 十五世 原田仁一郎 建立 平成十一年水無月 案内板 石碑の由来 潟村古称円上寺湖と言う500余町歩の湖があった 秋から冬にかけては湖に水が満ちて大湖となり 稲は水没し農民は苦しんだ 湖の辺の真木山村の庄屋 原田要右エ門は 小豆曽根村庄屋 竹内吾右エ門と共にこの水を須走(すばり)(現在の野積)浜に落とすべく間歩(まぶ)(トンネル)を造る計画を作り 自らを洞水と称し 生涯この仕事に生命をかけた 工事は寛政12年起工 15年の歳月と延べ19万人の農民の努力によって 遂に 文化12年に完成 結果は大成功で 藩主も農民も大喜びであった 大地主であった定珍は要右エ門の功績を讃える文を作り良寛に添削を依頼した 碑文の前文は良寛の作で 後の定珍の歌は 文政3年康辰2月 間歩(まぶ)川の水行きを見てよんだ歌である 要右エ門は工事半ばにして過労のため53歳で世を去ったが 仕事は嗣子六兵衛に引継がれて完成をみたのである 補 足 歌の前文は良寛作と案内板に記されているが 定本良寛全集第二巻943には 前文「この秋は・・・」の前に次の文が掲っている 「円上湖とて大いなる潟なんありける 思へば20歳余りにもなりぬらむ 片方の山を穿ちて その水を須走てふ浦に落としけり さてこの所に幾千まちの稲を植ゑたりければ」 谷川敏朗著「良寛の生涯と逸話」181頁に次のとおり記載されている 原田要左衛門は良寛の知友鵲斎の兄であり 竹内吾右衛門は良寛と親交があった(ここでの原田要左衛門は原田要右衛門の誤りと思われる) 場 所 新潟県燕市真木山 「真木山ふれあいセンター」右奥 原田邸庭上 建 碑 平成11年(1999)11月 建碑者 15世 原田仁一郎 参 考 「定本良寛全集」2-0943