新設:2017-05-01
更新:2023-03-01
撮影:2013-05-15
万元上人之墓(墓碑)
- 墓碑面
-
(中央墓碑の文字)
享保三季歳在戊戍
久賀躬山五合庵開基祖慧海阿闍梨
春三月二十有三烏
- 読 み
-
享保三季歳在戊戍
久賀躬山五合庵開基祖慧海阿闍梨
春三月二十有三烏
- 案内板
-
分水町指定文化財
萬元上人墓碑
この墓碑は享保5年(172)正月 萬元の没2年後に遺弟慧刀他有志によって建立された
萬元は天台宗の僧で 生国は大和(奈良県)吉野郷広橋 公卿の御落胤とも伝えられる 貞享(1685~)の頃 諸国遊歴の途次越後に入り 國上寺中興2世良長の客僧となり 以降同寺本堂再建 洪鐘の鋳造など30余年にわたり尽力する一方 民政の調停にも意を注ぎ また「野路の杖」などを著して地方文運の興隆に資する面も多かった
國上寺では 萬元の労に報いるため小庵を建てて贈り 日に米五合を給したことから 萬元はこの庵を「五合庵」と名付けた
享保3年3月 阿弥陀堂落慶に先立つ2ヶ月前 新潟巡錫中没した 享年60歳
- 場 所
-
新潟県燕市国上 国上寺西参道脇 五合庵境内 五合庵左奥
- 建 碑
-
享保5年(1720)正月
- 建碑者
-
遺弟慧刀他有志
- 蛇 足
-
「五合庵」という名称の由来について
毎日米5合という量は 現在の度量衡からすると 少なくはないので これを 万元和尚が生きた時代の5合は 現在の1/10であったと 説明されることがある
しかし 万元和尚が生きた時代と現在の度量衡に 日本では10倍の差はないようで むしろ 大きく変わってはいないようなので 何か別の趣意があって
万元は「五合庵」と名付けたのではないかと 考えたい
- 参 考
-
国上寺公式サイト
このページのトップへ戻る