新設:2017-05-01
更新:2023-03-19
撮影:2011-05-20
遍澄法師墓(遍澄法師頌徳碑)
- 墓碑銘
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遍澄法師頌徳碑
- 案 内
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遍澄法師は 享和2年(1802)鍛冶職早川甚五右衛門の長男として 島崎で生まれた 11才頃から 島崎の妙徳寺堅深和尚の指導を受け始め 文化13年(1816)16才の頃
五合庵の良寛を訪ねて良寛の法弟となって 良寛の身の回りの世話をしたという
後に 遍澄法師が地蔵堂の願王閣主に就くとき 老いた良寛の世話を 島崎木村家に頼み 良寛の最期は貞心尼や良寛弟由之らと共に看取ったといわれ 遍澄法師が描いた良寛像(釈迦堂良寛画像)は
柏崎市東本町の常福寺所蔵となっている
なお 遍澄法師の墓は 島崎地区有志によって 昭和35年(1960)「遍澄法師頌徳碑」として再建され 現在に至っている
- 案内板
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船岡山妙徳寺
真言宗豊山派妙徳寺は 元明天皇和銅2年(709) 越前国越智山の泰澄大徳の開山と伝えられる 泰澄は当国米山を開き 後 国上山に登らんとして当地に舟行し 裏山通称舟山に紫雲たなびくを認め舟を止めて霊光をもとめつつ 遂に錫をとどめ一宇を建立し 自刻の文殊菩薩の尊像を安置せらる 当山の山号「船岡山」はこれに起因している 縁起には「かって塔頭12坊を創建したが 幾多の星霜を経て堂宇悉く廃頽し 治暦年間(1065年頃) 山城国小野源仁僧都中興すと梵鐘にあった」記されている 昔時 西行法師が歌行脚の際立寄られ観音堂に和歌を奉納される
波たかき世をこぎこぎて人はみな
船岡山をとまりとぞする
大同2年(807)当山の住僧法印賢宥は中風気味となったが 行基菩薩御作の薬師如来尊像に願をかけ 授かった「灸点」によって治癒を遂げたという 賢宥はその霊験を世に広め
爾来多くの信者を集めてきたが 毎年7月1日には中風除けを願い 門前市をなして今もなお盛んである 寺号の「妙徳」は本尊文殊菩薩脇本尊薬師如来の霊徳甚だ神妙なるところから名づけられたという
寺は慶応4年に戊辰戦争で兵火に罹り堂宇悉く焼失した 現本堂は大正7年(1918)の建立である なお 境内には良寛の唯一の法弟遍澄法師の墓がある
平成5年12月5日
妙徳寺
- 場 所
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新潟県長岡市島崎4895 (真言宗豊山派) 船岡山妙徳寺境内
- 筆 者
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山田鏡阿
- 建 立
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昭和35年(1960)8月
- 建立者
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島崎地区有志
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