碑 面(右碑) 窓前芭蕉樹 亭亭払雲涼 読歌又賦詩 終日坐其傍 七月十六日 何処消烝炎 独愛出田宮 民民盈耳蟬 冷冷出林風 當不留連波 多不流々末々乃 庭乃草 餘美當天々 和起轉所禮東者 奈計禮東者 東者尓門幾勢奴 毛乃耳處安利氣留 己所能安幾 宇門之天有幣之 不知者可末 古能安散門由耳 左閑利奈利計里 美者也之 美者也之波 以都久波安禮止 己之知奈留 美之末能散東能 以門流堂能美也 碑 面(左碑)読下し 窓前芭蕉の樹 亭々として雲を払って涼し 歌を読み又詩を賦し 終日之の傍らに坐す 七月十六日 何れの処にか烝炎を消さむ 独り愛す出田の宮 民々耳に盈つるの蝉 冷々林を出づるの風 倒るれば倒るるままの庭の草 よみたてて 分きてそれとは なけれども 永久に尽きせぬ ものにぞありける 去年の秋 移して植えし 藤袴 この朝露に 盛りなりけり み林 み林は いづくはあれど 越路なる 三島の里の 出田の宮 碑 陰 良寛禅師が 木村邸の草庵に住まわれた晩年 涼を求めて出田の宮(宇奈具志神社)の林に休まれた時の詩歌である 天保2年正月に遷化されてから170年にあたり 遺徳を偲んで境内に建立する 平成12年3月吉日 建立 良寛詩歌碑建立実行委員会 和島村 良 寛 会 々 大字島崎 々 観光協会 碑稿 新潟大学 加藤僖一 案内板 出田(いずるた)の宮と良寛さん 出田の宮の大田命が大古 糀蓋に乗り 大根の杖を持って奈良崎に降下され 民のために農耕を教えると共に 糀の製法を指導されたとの言い伝えがある 其の徳を称えて 田の中央に土盛りして神殿を建て 出田大明神の尊号を以て 崇敬して来た 宝治2年(1248)に 島崎部落の中央に転座して 旧社跡は御旅所となった 明治3年 社号を宇奈具志神社と改称し 諏訪神社 天王社 金刀比羅社を合社する 良寛さんは 宝暦8年(1758) 出雲崎の名主山本家の長男として生まれ 18歳で出家 22歳から国仙和尚に従え 玉島の円通寺(岡山県)で修行した後 各地を行脚した 帰郷し 文化元年(1804) 五合庵に入り その後 乙子神社草庵に移る 文政9年(1826) 遍澄にともなわれて島崎木村家に移り住む その頃 貞心尼が訪れる 天保2年(1831) 最愛の弟子らに看取られ74歳で生涯を終わられた 出田の宮の社頭には 大欅が空を覆い 境内には 数百本の大杉で昼なお暗く 鷺などが群居していた この碑の詩歌は 文政13年7月中旬の作であろう この年は ことのほか暑かった 良寛さんは暑さを避けて 木村邸内にある芭蕉の樹の木陰や 社の林に出向いて 涼しい風に吹かれ 蝉の音を聞き 国上山を眺めながら老いの身を休めておられた また 「幾むれか鷺のとまれる宮の森 有明の月雲隠れつつ」などの歌も詠まれている 場 所 新潟県長岡市島崎4753 宇奈具志神社(出田の宮)境内 筆 者 良寛 碑 稿 新潟大学 加藤僖一 建 立 平成12年(2000)3月吉日 建立者 良寛詩歌碑建立実行委員会 和島村 良 寛 会 々 大字島崎 々 観光協会 参 考 「定本良寛全集」 (漢詩2首) 「窓前芭蕉樹」1-653 「何処消蒸炎」1-654 (俳句1句) 「たふるれば」3-俳句-105 (和歌3首) 「よみたてて」2-1200 「こぞのあきうつしてうゑし」2-1110 「みはやしや」2-1383 (案内板和歌)「いくむれか」2-0372