案内碑1案内板1 楽山苑 江戸時代 越後屈指の豪商・大坂屋の別荘で 明治25年(1892)に建てられた楽山亭は 市の文化財に指定されている 手斧だての外露路門を潜ると 風雅な装いの建物と自然の山と庭園がよく調和した見事な空間構成である 玄関・寄付・居間・持仏堂といわれる茶室・貴人口・瓦斯燈口から台所、風呂場・下腹雪隠(便所)など簡素な作りで 間取りから柱・梁・中釘・窓・平天井・掛込天井や手水鉢にいたるまで清楚な味わいをだしている 又かって廻船に使用した船板を用いるなど 随所に数奇をこらしている 庭園に樹木や草花が植え込まれ 飛石・乗石・踏石・蹲踞や織部燈籠などが巧みに配されている なお 苑内には良寛の維馨尼宛書簡の碑や 良寛が三輪左一老を偲ぶ碑がある また 背後の山腹には 市文化財指定の十一面観音菩薩像が安置してある 案内板2 旧大坂屋別荘観世音の由来 当別荘に安置さる 十一面観世音尊像は 元旧大坂屋の所有でった 依って三輪家の家伝によれば 去る豊臣秀吉公の朝鮮出兵の際 縁有って日本国へ請来されたものである 凡そ今より約850年前 新羅王朝の時代 彼の地の名工によって彫作せられたものである 故三輪潤太郎氏奈良に於て入手せられ 明治24年頃 与板へ請来され 堂を建立して安置せらる 以後三輪家の護持仏として毎年法要を営み 徳昌寺禅山和尚の徒弟である 堤下丁某家出身の老尼をして常住せしめ日夜之が祭礼を行はせらる 其の後 明治38年期せずして同家の変易に逢い 三輪家の手を離れ 新津市石崎家の管理下に移り 以後約60年間祭祀を断たれたり 昭和27年に至って横越村伊藤家へ移搬されるも 観世音の夢告あり 昭和30年伊藤家より与板町へ寄進され再び与板へ帰還されたり 同歴36年 度び重なる災害も難を逃れ給い 当局の配慮と 講中の設立により復興して今日に至る 別記 この観世音渡来に際して非常に関係の深かりし人士の子孫に当るお方が 三輪潤太郎氏の直孫三輪洋二郎氏の御夫人であり 毎年つとめてお詣りをされています 平成3年10月吉日 徳昌寺37世省純記 場 所 新潟県長岡市与板町与板甲627甲