新設:2017-05-01
更新:2024-03-18
良寛遺墨碑「天上大風」
東京大学戦没同窓生之碑
撮影:2010-09-18
- 碑 面
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東京大学戦没同窓生之碑
天上大風
良寛書
- 脇碑面
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東京大学戦没同窓生の碑
昭和6年(1931)から昭和20年(1945)まで15年(満州事変 日中戦争 太平洋戦争)にわたる戦争で東京大学も多数の戦没者を出したが戦後50年のあいだその実数は不明のままであった
このたび大学による学徒出陣の調査が行われ1,700人近い戦没者が明らかになったが その実数は2,500人にも達すると推定されている
私たち医学部卒業生有志はこの事実に驚き 悲しみ 世紀がが変わる前に追悼の碑を建ててこの事実を後世に伝えるべく追悼基金を組織した
この「東京大学戦没同窓生之碑」は 大学正門前のこの地にお住みの方々から温かいお心をいただいて建立が可能になり 同窓生あい集って建立するものである
「避けがたい状況の下に 愛する人々のために一命を捧げた」若者たちのいたましくも悲しい事実を歴史に刻む碑であって 戦没同窓生への深い思いを「天上大風」という良寛の言葉に託した
今世紀最後の東京大学5月祭初日の今日 ここに同志あい集ってこの碑を建立し音楽と花を捧げ深い哀悼を世に伝えるものである
平成12年5月27日
医学部戦没同窓生追悼基金
- 場 所
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東京都文京区本郷6-10-2
- 建 碑
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平成12年(2000)5月27日
- 建碑者
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医学部戦歿同窓生追悼基金
東京大学医学部戦歿同窓生の碑(関連碑)
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『春来たり花は咲けども』(非売品)
東京大学医学部戦歿同窓生之碑建立記念誌
- 編 者
あとがき
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あの戦乱の時代、徴兵制度下に軍隊という特殊な集団に身を置き、姿なき命令に従って、あるいは北海の波涛の果てに、あるいは南海の怒濤の果てに、愛する者を思いながら可惜若い命を捧げた同窓生を思うと、誠に悲しい。日本各地から志を立てて医学の道に入り、優れた思考力をもった「人達であるだけに、あの避けがたい現世の桎梏にどんなに苦しんだことか、どんなに善と悪ととの狭間に悩み、安心立命を求めつづけたことであろうか。
編者は本書編集の途次、懐奘の遺した『正法眼蔵随聞記』を読み返して、道元に教えを請い、聖書をひもといて教えを求めた。
かれら戦没同窓生達の死により贖った、飽食の平和を謳歌する新しい日本人たちから、戦死は戦争に加担した悪の結果であるにすぎないと断じる浅薄な言葉を聞かされるにつけ、私はかれらの戦没同窓生への悼みをより深くより強くしている。
この記念誌は、本来ならば建碑事業が終わった後で制作するべきであるが、昨年の正門前建碑の直後に、基金の事業はこれで終わることを想定して、記念誌編集の準備を始めたこともこともあって、すでにかなりの分量の原稿や記録が手元に集まっており、建碑案内、基金財政報告、建碑報告など数次に亙る通信費を節約するため、弥生門前建碑の直前にこれらをまとめた形で配布することにした。
<以下 省略>
- 奥 付
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本書は平成13年5月に行う東京大学医学部戦没同窓生之碑建立のために制作した。
春来たり花は咲けども
2001年5月27日
編 者 二宮陸雄 小林登 上代淑人 塙嘉之 平尾正治
発 行 東京大学医学部戦没同窓生追悼基金 (非売品)
事務局 二宮内科 101-0044
東京都千代田区鍛冶1-9-1
制 作 網代旭 日吉恵子
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「東京大学戦没同窓生之碑」建立を伝えた報道
報道1 2000年5月26日付「朝日新聞朝刊東京版」
- 記事見出し
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学徒の犠牲 忘れまじ 戦没した友の碑を建立
東大医学部の卒業生有志 正門前の民有地 五月祭で序幕
- 記事本文
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東京大学医学部を戦前や戦後まもなく卒業したOB有志が、太平洋戦争末期に学徒出陣して戦死した学友のために記念碑を、大学正門前の民有地に建てた。「五月祭」初日の27日、除幕式をする。東大では7年前に吉川弘之前総長が調査を命じるまで、「学徒出陣で何人の犠牲者がでたのか」さえ分っていなかった。すでに戦後50年余年。「仲間を失った自分たちの目が黒いうちに、あのいたましく悲しい事実を歴史に刻まねばならない」。高齢となった戦争世代の思いが、建立までにこぎつけさせた。 (野村 周)
きっかけは、1993年秋に始まった東大の学徒動員・学徒出陣に関する調査だった。3年後にまとめられた結果では、1652人の戦没者が判明した。ただ、残っている資料も少なく、実際には全体で2500人近くにのぼる可能性もあるという。
この結果に、千代田区で開業医をする二宮陸雄さん(70)ら5人の医学部OBが動き始めた。37-62年に医学部を卒業した約2500人に募金を呼びかけた。まもなく、6百人強から約8百万円が集まった。同時に寄せられた手紙から、大学の調査結果になかった33人の戦没者も、新たに分った。
ただ、東大では構内の敷地に碑を建てることは大学の規定から難しく、数年後に完成する医学部の建物屋上に設置する方向で検討されることになった。一方で、募金をした有志の半数は七、八十代の人たちで、この間に次々と亡くなっている。
そんなときに、二宮さんがふと立ち寄った東大正門前の住民が、事情を聴き、土地の提供を申し出てくれた。1坪ほどの地に、高さ140センチの白い御影石を建てさせてもらった。「戦前、戦後と、変わりなく東大の学生たちを見守ってきてくれた地域の人に、また助けられた思いです」。二宮さんはそう話す。
募金を呼びかけた5人のうちの1人、神奈川県鎌倉市の平尾正治さん(81)は、同級生の25人が戦死した。「あの時代、避けがたい状況の下で多くの仲間が志半ばで亡くなった。世紀が変わる前に追悼碑を建て、事実を歴史に伝えたかった」
27日午後3時から除幕式を行い、地元本郷の子どもたちも献花をしてくれる予定だ。
- 写真説明
- 東大正門前の民有地の一角に建てられた「戦没同窓生之碑」=文京区本郷で
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報道2 2000年5月28日付「読売新聞朝刊都民版」
- 記事見出し
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戦没東大生1700人、歴史に刻む
OB悲願の石碑完成
- 記事本文
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学徒出陣で戦没した約1700人の東大生がいたことを歴史に刻みたい――。同級生や先輩・後輩を戦争で失った東大OBたちの悲願だった戦没碑が完成し、東大正門前で27日、除幕式が行われた。
碑は高さ1.4メートルの白御影石製で、江戸時代後期の禅僧・良寛の書いた「天上大風」の銘を大きく刻み、わきに「東京大学戦没同窓生之碑」と添えた。戦死した友人が同窓生を見守る場所を「天上」、多くの若者の運命を変えた戦争を「大風」という言葉に込めた。
除幕式には、東南アジアなどの激しい戦地に出征したOBら約70人が参加た。バイオリンとチェロの記念演奏のあと石碑を覆っていた白布が取り払われ、参加者たちは黙とうして、旧友や先輩のめい福を祈った。
東大は1993年から3年かけて学徒出陣の調査を行ったが、その結果、軍医として戦地に行った医学部生を含め、全学部で少なくとも1685人の学生が戦死したことがわかった。
この調査結果を知った内科医院院長の二宮陸雄さん(70)が同窓生に戦没碑の建立を呼びかけたところ、60歳以上を中心に約640人から約700万円の寄付が集まり、石碑を設置する土地は、正門前のマンション所有者が植え込みの一部を提供した。
東大では、かって「わだつみの碑」と名付けた戦没慰霊碑を建てる計画があったが実現しておらず、戦争に関係した石碑が建つのは初めてという。
二宮さんは「戦時中に在学していた世代もすでに70歳を超え、石碑の完成を楽しみにしていたOBが今年だけで3人他界した。終戦から半世紀以上もたってしまったが、除幕までこぎ着けることができてうれしい」と話していた。
- 写真説明
- 東大戦没者慰霊碑の除幕式に参加するOBたち
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報道3 2000年10月1日刊 全国良寛会会報「良寛だより」第90号
- 記事見出し
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東京大学戦没同窓生之碑 「天上大風」建立
- 記事本文
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学徒出陣等で戦没の東大生約1700人の慰霊碑として、東大正門前に良寛筆「天上大風」が建碑され、平成12年5月27日千代田区開業医二宮陸雄さんらOBにより除幕式が行われた。碑は東大構内で設置できない事情を知った正門前住民が土地を提供。1坪の土地に御影石140糎の高さ。
多くの若者たちの命運を変えた戦争を「大風」という言葉にこめて慈愛の良寛に鎮魂の導師を冀ってのことか。
- 写真説明
- 会員 泉捷司 氏提供(東京在住)
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報道4 「学術の動向」2003年6月号 42-43頁
- 記事見出し
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学術の課題 平和へのアプローチ
「平和へのアプローチ」に寄せて
- 記事抜粋
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~省略~
東京大学本郷キャンパスの正門及び弥生門に面した私有地に、第二次世界大戦で戦没した同窓生を悼む「愛の碑」が、敷地を所有する方々の協力を得て設置されている。
東京大学では、学徒出陣を含めて推定2,400名以上の戦没者を出したとされ、医学部だけでも230名に達している。次代の科学者コミュニティの一翼を担うべき有為の人材が、あの過酷な徴兵制度のもとに在って、志を果たすことなく戦乱の中で数多くの若い命を失っていった。その死を悼み、東京大学医学部の卒業生有志(世話人:二宮陸雄博士、他)が醵金して記念碑を建立した。
当初、学内の然るべき場所を企画したが、“東京大学医学部教授会が実質的に審議から外したまま時間が経過したので、既に老境に達した戦争世代同窓生のために” ひとまず学外に設置された。その間、“飽食の平和を謳歌する世代からは、戦死は戦争に加担した悪の結果に過ぎないと断ずる声までが聞かれた”という。学外から母校を見つめるこれらの記念碑は、若くして死を余儀なくされた戦没者を悼むのみならず、その哀悼の意すらも次の世代に伝えること自体がいかに困難であるかを示す一証左ともなろう。
~省略~
全文は、コチラからリンクします
- 執筆者
- 平野寛
「学術の動向」編集委員会副委員長、日本学術会議第7部会員、日体柔整専門学校校長、杏林大学名誉教授
- 媒体誌
- 『学術の動向』
発行:公益跡財団法人日本学術協力財団
編集:『学術の動向』編集委員会
編集協力:日本学術会議
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報道5 「医者と侍」医学歴史小説
- 執筆動機
- 『医者と侍』の「あとがき」の末尾に 次のとおり記されている
この小説は、東京大学医学部戦没同窓生の碑を本郷キャンパスの外に建てたあと、深い悲しみと抑えがたい怒りの中で、シャリ警衛の生き残り藩士斉藤勝利の『松前詰合日記』を読んで、宿命と義務と倫理の強い枠組みの中で、無益無残な死に至った藩士たちの無念さが、故国を離れた孤島で無残な死を遂げた戦没同窓生たちの無念さと重なり、かれらの死が故国母校においてまるで忘れ去られたかのような現在に心痛んで、「根っからの医者」である村井慎之助と「根っからの武士」である工藤茂兵衛の紐帯(ちゅうたい)と津軽藩の極限状況を背景に、渾身の力をふりしぼって書き下ろした。
2003年8月28日 二宮陸雄
- <注>
- 本書の著者(二宮陸雄)は、本書上梓後、「古事記の真実:神代編の梵語解」「古事記の真実 空の巻」「高橋景保一件:幕府天文方書物奉行」「星侍」「新編・医学史探訪:医学を変えた巨人たち」「群青列島」「高橋景保と「新訂万国全図」:新発見のアロウスミス方図」などを精力的に上梓したが、 2007年11月に逝去した
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報道6 ブログ「30112の日記」
東京大学戦没同窓生之碑建立世話人代表・二宮陸雄を
「畏友」と仰いだ伊藤實が遺したブログより抜粋
2014年05月28日の記事
今日は、鍛冶町にある二宮クリニックの髙崎千穂先生に診て頂く、髙崎千穂先生は、畏友、二宮陸雄さんの令嬢、二宮陸雄兄は、実に天才だったな
語学は、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、サンスクリット語に堪能、糖尿病の権威
その著作は、糖尿病関係、医学史、語学教科書、医事小説、等単行本で、書名で50を超す
「古事記の真実」は、サンスクリット語を訳したもの、大した書物、貴重な書物
昨日、5月27日は、彼が中心となって作った「東大医学部戦没者の碑」の記念日、この鍛冶町へ来ると、彼との思い出が次々と蘇る
2014年03月04日の記事
彼は、信念の人で「東京大学医学部戦没者記念碑」を東大構内に建碑しようと努力した、しかし、大学側から許可されなかった、そこで東奔西走して、同志を集め、資金調達し、場所の提供者を探した
平成12(2000)年5月27日に、東大正門前のモンテベルデに「東京大学戦没同窓生之碑」の除幕式と記念演奏会が盛大に行われた
さらに、平成13(2001)年5月27日に、東大弥生門前で「東京大学医学部戦没同窓生之碑」の除幕式と記念演奏会が、大々的に行われた
彼は、半生を、この碑の建立にかけたのではないかと、彼の信念の強さに感動する
2018年10月10日の記事
晴、私は1930年1月12日生まれ、88歳だ、だから「30112の日記」と名付けた、本日記を書き出してから本日で満5年になった、最近では、残念ながら、すっかり書く体力が無くなった、ここ2年ほど体調不良が続いている
<注>
このブログの筆者(伊藤實)は、神戸で生まれ、呉で育った。その呉で、戦後、学校は違うが共に旧制高校2年生のとき、1929年生まれの二宮陸雄との出会いがあった。後年、伊藤實は、上述2つの除幕式で、お手伝いをしたらしい。
このブログは、2019年8月21日から長く休んだ後、2020年5月14日に、日本語に変換されない、短いローマ字入力のままをもって、終わりとなっている
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報道7 2023年10月1日刊 全国良寛会会報「良寛だより」第182号 7頁
2024年 1月 1日刊 全国良寛会会報「良寛だより」第183号 6頁
- 記事見出し
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東京大学 天上大風の碑
~ 大風、未だ止まず ~
- 記事概容
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立花純子新潟良寛研究会会長が、戦没者の鎮魂を願い全身全霊を籠めて執筆した本稿は、誌面の都合上、2回に分けて掲載された。
前半の第182号で、東京大学戦没同窓生之碑に何故「天上大風」なのかとの疑問を投げかけ、その回答として、当該「天上大風良寛風遺墨碑」建立後間もなく、二宮陸雄碑建立世話人に若月忠信元敬和学園大学大学教授が取材し、次の回答を得たという。
「天上は戦死した友人が同窓生を見守っているところ、大風は地上で起きた戦争と考えた。訴える力があり、広がりのある言葉でこれ以上のものはないと思う」
<注>上掲の報道2の読売新聞記事と実質的に一致している
続いて、天上大風碑除幕式で歌われたという東京大学応援歌の歌詞二番にある「双眼の澄める子ら」に「君看双眼色」を思い、出陣学徒壮行会の中にいた東大生・吉野昌夫(のちに中央歌壇で活躍)が当時詠んだ歌を紹介し、後半につなげた。
後半の第183号では、戦時を生きた歌人である宮柊二、久保た章一郎らの歌を紹介し、さらに本ページの上段に紹介した東京大学医学部戦没同窓生之碑建立記念誌『春来たり花は咲けども』の「あとがき」に記された二宮陸雄世話人の願いに触れ、再度「天上大風」で結んでいる。
- 執筆者
- 新潟良寛研究会会長 立花純子
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