「全国良寛会」機関誌「良寛だより」174号(2021年10月1日発行)10頁に 加藤僖一新潟大学名誉教授が寄稿した記事「忘れ得ぬ人びと⑤ 小原国芳先生と大学初の良寛銅像」が掲載された
そして 2022年7月1日 刊行の『加藤僖一 書道随想 53~64号』にも 同じ内容で(写真が1枚多い)収載された
その記事から 加藤僖一先生の承諾を得て、一部を抜粋して転載させていただく
私が玉川大学総長小原国芳(おばらくによし)先生をお訪ねしたのは、昭和52年9月22日だった。総長の家をお訪ねすると、先生は既に91歳のご高齢で休んでおられた。しかし先生が出てこられた服装を見て私はビックリした。いわゆる羽織(はおり)・袴(はかま)の正装なのである。そして最初のお言葉は「やあ、思ったよりお若いなあ、それに、なかなかの美男子だなあ」とお仰った。
そして1時間ほどすると秘書の方が「総長、ドクターがお見えになりました」と迎えにきて、再び点滴を受けられる。したがって私に会う為にのみ身嗜(みだしな)みを整えられたわけで、先生の誠意に恐縮した。
帰る時には「奥さんを大事になさいよ」と言われた。先生は前年に奥様を亡くされたばかりなので、いかにも心にしみた。
先生は西洋哲学や教育学の専門家でおられ、また熱心なキリスト教信者でもおられる。晩年「良寛さんのいい伝記が欲しいのだ。幼稚園教育の理論や方法ではフレーベルが世界一だろうが、魂はむしろ日本の良寛さんだ」と仰るようになった。
玉川大学構内に良寛像を作られるのに、岡山の円通寺境内の良寛像と子供二人なので、それに負けたくないと良寛と子供三人の像になった。大学に良寛像が出来たのは玉川大学が最初、新潟大学が二番目であった。そしてすべての学生達から良寛を知ってもらう為に、いい伝記が欲しいと考えられたのである。
~中略~
ペスタロッチ(スイスの教育家1746~1827)の墓標には「すべてを他人の為に、おのれには無」ときざまれているそうだが、これは良寛と全く同じ精神である。
私を小原先生にご紹介下さったのは、鎌倉芳太郎先生だった。
[注]
小原先生は 加藤先生とお会いになってから 3ヶ月ほど経った1977年12月13日に永眠された
小原先生が加藤先生に所望した「良寛の伝記」が 玉川選書『良寛 日本人のこころ』として1978年9月1日に上梓された